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うとうとしかかったとき、けたたましく目覚ましが鳴った。まだ眠っているエバを揺り起こし、出かける準備をした。ビデオカメラとカメラをリュックに入れていると、エバも自分のリュックから一眼レフのオートフォーカスのカメラを取り出した。いつのまにこんなカメラを持っていたのか。
「これ、日本で買った」
「買ったんじゃないだろ、プレゼントだろ」
「そう。ビデオも持っているよ。アパートにある」
自分の家族には金を惜しまなかったエバだが、自分の身の回りの品に関しては、徹底的にケチった。洋服や化粧品なども、そのときそのとき親しかった男たちにねだった。
実はカメラは、例の一年前の誕生日のプレゼントにわたしが買わされるはずのものだった。「今度の誕生日のプレゼント、カメラが欲しい。ね、いいでしょ」と言われていた。わたしの持っていたオートフォーカスのカメラと同じものが欲しいというのだ。七、八万円もするので、わたしは生返事をしていた。
ところが、誕生日の直前になって、「ダイヤの指輪をプレゼントとして」と言い出した。それも十万、二十万というものではなく、三万円のものだったから、こちらとしては、正直「助かった」という気になった。だが、あれほど「欲しい」と言っていたカメラの要求を引っ込めたのが引っかかった。おそらく他の男にプレゼントしてもらったのではないかと思っていたのだが、やっぱりそうだった。ビデオも、他の誰かに買ってもらったものなのだろう。不況とはいえ、「恋人」になりたいがために、無理して高価なものをプレゼントする男はけっこういたのだ。
ホテルはちょっとしたリゾートホテルだった。趣があって気分がよかった。チェックインのときに、フロントの女性にファックスはあるかどうかエバに聞いてもらった。日本からファックスを送ってもらう必要があったからで、一番高いホテルにしたのは、安宿だとファックスがない可能性があったからだ。あると言うので番号を聞くと、ホテルの電話番号と同じだった。田舎のホテルだから、ファックス兼用らしい。
国際電話がかけられるかどうかも尋ねると、直通ではなく、昔の日本のように交換手につないでもらうシステムになっているらしい。そこで、日本の連絡先の番号を紙に書いて渡した。フロントの女性は、「つながった」と言って、受話器をわたしに渡した。幸い、本人が出た。わたしはこちらの番号を伝え、ここにファックスを入れて欲しいと頼んだ。これで一安心した。
チェックインでは、パスポートの提示と宿帳の記入を要求された。エバも身分証明書の番号を書かされた。住所は二人ともエバのボゴタのアパートを書いた。
鍵を預かり、荷物は少ないので、二人で二階の部屋に上がって行った。部屋はダブルで、ベッドもかなり大きかった。冷蔵庫も付いている。少し古い感じだが、その古さが軽井沢の万平ホテルのようなシックなイメージを作っていた。
部屋に荷物を置き、エバにどうするか尋ねた。時間はまだ、一時過ぎである。近くにある考古学博物館(パルケ)に行く時間は充分あった。
「リュージ。ちょっと疲れた。あとで行く。オーケー?」
車の中で居眠りしたエバより、一睡もしていないわたしの方が疲れていた。一時間ほど仮眠することにして、目覚ましをセットして、ベッドに横になった。
ツアーのチケットを受け取って、マックイーンの車に戻った。マックイーンはホテルまで送ってくれたが、ホテルのちょうど向かいにレストランがあったので、彼に「一緒に食べないか」と言った。おなかが空いていたらしい彼は、もちろん了承した。
まずビールを頼んだ。エバも飲みたいと言う。マックイーンにも聞いたが、彼も飲むと言った。彼はこれからネイバに戻らなければならないが、ビールの一杯くらいはだいじょうぶだろう。料理は、適当にエバに任せた。薄く固いビーフのステーキに、サラダ、ライス、フライドポテトの付け合せにスープというコロンビアの定食が出てきた。けっこううまかった。この地方の味付けなのか、スパイスの使い方が少しボゴタと違っているような気がした。
マックイーンとは、改めてスペイン語で自己紹介した。マックイーンは、「何だ。スペイン語が話せるのか」と言った。それまでは単純な単語を並べるくらいのスペイン語しか使わなかったからだ。わたしはこんな遠くまで来て、帰りはどうするのか聞いてみた。空で帰ったら、一人で何時間も運転して大変だろうなと同情したからだ。だが、彼は「ネイバまで帰る観光客を拾うさ」と笑って言った。
ビールが空になったので、わたしはもう一本ビールを注文することにした。マックイーンのビールも空になっている。一人だけ注文するのも気が引けるので、マックイーンに「もう一杯飲むか」と聞くと、「もちろん」と言った。「運転はだいじょうぶか」と心配になって聞いたら、「そんなのへっちゃらさ」と笑った。アグアルディエンテで鍛えているから、ビールなんて水みたいなものなのだろうか。
三人で話していると、数人のコロンビア人のグループが通り過ぎて行った。わたしが用心のためリュックの紐に手をかけると、マックイーンは手を少し挙げ、「だいじょうぶだ。わたしが見張っているから」という表情をした。彼を疑っていて悪かったと思った。
食事を終え、勘定を済ませた。二万ペソくらいだった。ついでにマックイーンにも、約束の七万ペソを支払った。食事をおごってやったためか、チップは要求されなかった。本当にいいやつだった。
ホテルは歩いても五十メートルの距離にあったが、マックイーンは玄関まで送ってくれた。わたしは、彼が帰りの客を拾えるように祈って、「グラシアス」と礼を言って別れた。
マックイーンは何度かサンアグスティンには来たことがあったようだが、CNTの場所は知らなかったらしく、路上の男に場所を確認してからわたしたちを案内した。ところが、マックイーンが車を止めたのは、CNTではなく、村で唯一の旅行会社「ランキー・バロンキー」だった。ボリーバル広場の横にあった。独立の英雄、ボリーバルの名前が付いているということは、ここが村の中心地であるということでもある。
結果的には、ここでホテルやツアーの手配がすべて出来るので、問題なかった。エバが「どこのホテルにする」とわたしに相談した。ガイドブックを見てみると、ほとんどのホテルが共同トイレ、共同シャワーのバックパッカー用の安宿だった。値段も二ドルから七ドルくらいまで。その中で、街から少し離れた考古学公園に近いホテル「ヤルコニア」だけが、「レストラン、プール完備、熱湯もたっぷり出る」と書いてあった。料金もダブルで約四十ドルと高くはない。
ここまで来て、けちけちしたくなかったので、「ここで一番いいホテル。ここ」とエバに言った。幸い部屋は空いていて、ダブルの部屋が取れた。料金はガイドブックより少し上がっていて、二人で七万ペソだった。翌日のツアーの予約は、ジープによる五時間の一周コースを頼んだ。一人一万五千ペソだったので、二人分前払いした。ジープは朝の九時にホテルまで迎えに来てくれるという。
何台もの車が、立ち往生していた。バスもいた。それぞれの車の乗客だけでなく、野次馬らしい村人も何十人も見物していた。わたしたちも車を降り、最前線の車のところに行き、様子を見た。それでもなんとか渡り切ろうと、一台ずつ車が「小川」にチャレンジしている。バスは、タイヤが大きいせいもあって、なんとか渡り切った。みんなが拍手していた。
4WDだったら難なく渡り切れる程度の状態だった。だが、わたしたちのタクシーは後輪駆動のノーマルタイヤである。スタックしてしまうと、大変なことになる。「小川」は歩いて渡るのは難しくなかった。タクシーには、ここで戻ってもらい、別のタクシーに乗りかえることも考えたが、小川の反対側にはタクシーがいない。呼んでもらうにも、近くには電話はなさそうだった。
マックイーンにどうするか尋ねると、「だいじょうぶだ」と言って、一人で車に乗りこみ、アクセルを踏んだ。そろそろと小川を渡り始めたが、中ほどで後輪が激しく空転した。スタックだ。このまま前進も後退も出来ないとまずい。誰が声をかけるわけでもなく、わたしや周囲のコロンビア人たちがタクシーの後ろにしがみついて押し始めた。その甲斐あって、なんとかマックイーンの車は小川を渡り切った。また拍手が起こった。
マックイーンは、運転席からわたしたちに「乗れ」と言った。再び走り始めた車は、三十キロくらいのスピードで山道を登って行った。またがけ崩れでもあると心配だったが、二十分くらい走って、サンアグスティンの街中に入っていった。サンアグスティンは、規模からいえば、町ではなく村といっていいほど小さな街だった。しかし、観光地らしく、高級ではないがレストランや雑貨屋はけっこうあった。
わたしはマックイーンに、「まずCNT(観光案内所)に行ってくれ」と頼んだ。わたしたちはまだ、ホテルも予約していないし、ツアーの手配もしていない。CNTに行けばそれらの手配が出来るし、詳細な地図も入手できる。それでまずCNTに行きたかったのだ。
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